きらめきとひらめきを
せんだい3.11 メモリアル交流館は、東日本大震災を知り学ぶための場であるとともに、津波により大きな被害を受けた仙台市東部沿岸地域への玄関口でもあり、交流スペースや展示室、スタジオといった機能を通じて、より多くの方に震災や地域の記憶を語り継いでいくための場所です。2018 年2 月6 日よりスタートした企画展『3.11 現場の事実× 心の真実 結(ゆい)消防・命のプロが見た東日本大震災』の広報ツール、展示ヴィジュアルのデザインを担当いたしました。
若林消防署は仙台市の太平洋沿岸部の大部分を管轄する消防署である。東日本大震災当時、管轄地の多くが巨大津波の被災地となり、職員は発災時より不眠不休の救助活動・消防活動に奔走した。この時の体験を、職員自身が2011 年5月~7月に記した手記が『私の想い』という冊子にまとめられている。これまでこの冊子の内容は、その一部が若林消防署に展示されているのみであったが今回、震災から7 年を経て、ここ「せんだい3.11 メモリアル交流館」で紹介する機会を得た。ここに展示する内容は107 ページに渡る冊子『私の想い』を企画展のために新たに抜粋し、再構成したものである。また記録として消防職員により撮影された当時の写真を、手記とともに展示している。(企画展:展示案内メッセージより)
全員、生きて家族の元へ帰してあげたかった/必死で生きて幸せな人生を送る義務があるのだと思います/消防とは、なんて非情な組織なのか。力尽きるまで戦えというのか/心の底から湧き上がる「恐怖」とメラメラ湧き上がる「奮起」が交差した/一日でも早く私たちも、全国の同志とそのロープを強く握りしめたい/今やるべきことは何か?真に必要なことは何か?(企画展:リーフレットより)
災害現場で活動するプロは想像を超え、刻々と変化する事態に立ち向かっていた。それは、ひとりのヒーローではなく、ひとりひとりの人間の姿でもあった。ここ仙台で、津波被災現場の最前線に立っていた若林消防署職員が2011 年5 月から7 月にかけて書いた未公開の手記、隊員へのインタビュー、沿岸部の救助活動等に使われた資機材のほか、発災後に非常時体制となった消防の活動記録などを展示します。(企画展:リーフレットより)
〈バイクで津波から逃れ、初日の救助活動(約13 分)〉当時勤務していた荒浜航空分署に参集しようとしていた時、津波が目前に迫る。仙台東部道路付近まで津波に追われて逃れ、その後すぐに救助活動を開始。津波発生直後の現場活動の様子を語る。若林消防署荒浜航空分署消防第二係(震災当時)小野寺修さんOsamu Onodera 〈母として、女性として、災害への備えを訴え続ける(約12 分)〉発災後、2歳の長男を1 ケ月迎えに行くことができなかった及川さん、消防士の宿命を受け入れつつ、震災の経験を活かして、女性の視点、母親の視点から防災活動の大切さ、備えの重要性を市民に訴え続ける。若林消防署予防課予防係(震災当時)及川由佳里さんYukari Oikawa(インタビュー展示案内より一部抜粋)
このタイトルは、仙台市消防局のレスキュー隊員が、東日本大震災後に初めて東北で行われた「第46 回全国消防救助技術大会」(仙台・宮城大会)のスローガンとして考案したものです。消防救助の基本である結び(結索)や、全国から駆け付けてくれた関係者だけではない、語り尽せない方々との結束や、支援への感謝が込められています。私たちは、東日本大震災で「何を失ってしまったのか」「何が失われていないのか」「何が新しく生まれているのか」。7 年が過ぎて見失いかけている「何か」とは、失ってはならない「何か」とは、何なのでしょうか。あの災害がなければ気づけなかった「何か」という空白に「結」の一字が浮かびます。救助の現場で対峙していた命と命。そしてその生存を祈っていた人の命。この三つの命の関係は、距離(世界規模)も、時間(心と噛み合わない)も、あまりに様々で、不安と割り切れない葛藤を抱えながら、自然の猛威のまっただ中を巡った、三角点のそれぞれでありました。無数のそれらの点こそ「結び目」なのではないでしょうか。そして今。現実と関わる生き方の実感は、私たち一人ひとりが自分で感じるしかありません。人間と人間、人間と自然との命の「結」を、自然と共に生きる私たちの幸せのために、真摯に、素朴に、見直せたならと願います。(せんだい3.11 メモリアル交流館:館長 八巻寿文さんのメッセージより)
Visual design
2018-
内容構成:谷津智里
空間構成:大沢佐智子
デザイン:伊藤典博+ 安保満香
映像:さとうたいち
製作:FAC TORY・K
英訳:Nancy H. R oss
主催:せんだい3.11 メモリアル交流館
共催:仙台市若林消防署